美しいひと【3】
昼の熱を夜が全て奪ったかのような気温の中、影使いの子供は火照った頬をひっそりと手の甲で冷やす。
すーはー
目を閉じて深呼吸。
(よし)
「おまたせ…」
暖かいお茶を2人分、盆に乗せて自室のドアを開けると、そこには窓枠に浅く腰かけた美しいひと。
プレゼントした鉢は手元に、シカマルに薄く笑んでありがとうと告げた。
手渡した際に触れそうになった数センチの距離でさえ、心臓が跳ねる。
(なんだよこれ…)
幼馴染をもう馬鹿にはできないほどに、自分は目の前の青年に惚れ込んでいる。
まだたった数時間しか過ごしていないのに、自分の心の殆どを占める存在。
(俺って、恋愛馬鹿だったんだ…)
絶対にならない自信があった。
周りが目に入らないくらいに夢中になれる人物が現れるなど。
緋月と名乗る青年は、シカマルの渡したお茶を両手で持って、冷ますように、ふーと唇を尖らしている。
まるで小さい子供のような仕草。
傍目からは全く感じさせないが、シカマルの精神はかなり遠くに行ってしまっていた。
心臓はうるさいし頬も火照るし目の前の青年のことしか考えられない。
恋が不治の病だなんてよく言ったものだ。
そしてまさか自分が体験することになろうとは。
気付かぬうちに緋月のからだのラインを足のつま先から髪の毛の先まで目で追ってしまう自分はかなりやばいと思う。
「…ですね」
「え?」
ようやく聞こえた声にはっと顔を上げる。
「やっぱり眠いんじゃあないですか?」
申し訳なさそうにシカマルの顔を覗き込む緋月に、慌てて首を振る。
「眠くない。ごめん、何て言った?」
そう?とちょっと困った顔をして、緋月は笑う。
「“とても難しい本を読んでいるんですね”」
おそらく2度目であろう言葉を、丁寧に繰り返してくれた。
「そう、か?」
「はい。このへんとか、大人の方でもあまり読まれないですよ。頭が良いんですね」
「そんなことねーよ…」
手放しの称賛は少し照れる。
シカマルの部屋の半分を埋める書棚を、緋月の視線が追う。
まるで自身を見つめられているような錯覚に陥って、もう引き返せないところまでキていると苦く笑った。
「あ、この作者の本、俺も持ってます。違うシリーズのですけど」
「へえ?それで全部だと思ってた」
「あんまり部数は出てませんでしたから。火の国に行った際にたまたま見つけたんです」
「ふーん…」
背表紙の敗れた本を、そっと細い指がなぞる。
白い肌、白い指先。
忍とは思えないほっそりとした指先に、目が離せなくなる。
「医学の方面も…?」
感嘆の息を漏らし、その細い指で古い本を示す。
「あ、あ…それは今読んでるやつなんだけど…そこの間だけないんだ」
一冊だけ抜け落ちた巻。
探しても探しても見つからない。
すると緋月はこともなげに言った。
「俺、持ってますよ」
「へえ………え?」
すぅと流された視線に見惚れて一瞬惚けた返事をしてしまい、落とされた言葉の意味を知り瞳を見開く。
「よろしければ、お貸ししましょうか?」
「いいのか!?」
「え、え…」
思わず上げられた大声にびくりと肩を揺らし、緋月は頷いた。
「俺はもう読んでしまいましたから…」
「やった…!」
喜ぶシカマルの姿に呆気にとられつつも、緋月はくすりと笑った。
「本、とてもお好きなんですね」
「ま、あ…」
はしゃぎ過ぎたかと顔を紅くしたシカマルに、再び笑みが漏れる。
ひとつ小さく頷いて、くるりとシカマルに背を向ける。
向けられた背中において行かれるような、拒絶されたかのような不安が生まれて、一瞬で自分の背が冷えた。
「緋月っ…?」
困惑の色を浮かべるシカマルの表情に、きょとんと首を傾げながら。
「今から取って来ますよ」
「え?」
何を、と顔に書かれたシカマルの顔。
「この抜け落ちた本。5分ほどで戻ります」
「へ…?」
5分と言ったっか?
ここからナルトの自宅があると言っていた死の森まで、上忍のスピードで走ったとしても片道10分はかかる。
いや、それよりも。
「い、い…!」
「え?」
「本は、また今度でいい」
闇に溶けるように気配を殺す緋月、本人が言うのだから、きっと5分で戻って来てくれるのだろう。
けれど、嫌だ。
たとえ、5分でも。
あなたと、離れることが。
ずっと探していた本よりも、あなたとの5分の方が大事。
「えっと、すぐ…ですよ?」
「いい…!」
遠慮しているのかと、再度取りに行くと申し出た緋月に、シカマルは強く首を振った。
「本はいいから、ここにいて」
「…は、い…」
まっすぐ見上げられた漆黒の眼差しに、思わず返事してしまった。
どうしてこの影使いの子供が、これほどまでに自分を引き留めるのかは緋月にはわからなかった。
どうして良いのかわからず困るが、なぜだか嬉しい。
「…」
「…緋月?」
黙ってしまった青年に、シカマルは我儘を言い過ぎたかと不安になる。
嫌われたら、どうしよう。
行き着いた不安に、足元が揺れた。
「…一緒に来ますか?」
「え…」
ややあって、青年が静かに口にした言葉を、すぐには理解できずにいた。
「あ…いや…」
しかしそれは青年も同じだったのか、自分の漏らした言葉に困惑しているようでもあった。
思わず、口から出てしまったようだ。
しかし確かに家に誘われた。
その事実はシカマルの足元のぐらつきをなくした。
「あの、さっきのは…」
「行く…!」
なかったことにされる前に答えを喉から出してしまえば、きっと目の前の青年が断れないと、そう思った。
「あ…ぅ…」
変な声を漏らし、しまったなと眉を下げ、しかし責任は全て自分にあることを呑み込んだのか。
「…もう遅いから、シカクに連絡しますね」
苦笑して、握った手のひらをゆっくり開き、ふうと息を吹き込めば、淡く発光する小鳥になった。
それは緋月の手から離れ、窓からふっと消えるように飛んで行った。
「式を飛ばしておきました。どうぞこちらへ」
手招かれ、首を傾げる。
「あの、俺、履物とってこないと…」
「大丈夫です」
さあ、こちらへと差し出された白い手に、誘われるように吸い寄せられる。
「失礼します」
「っ…」
伸ばされた腕に、からだを引かれ、息をするのも忘れた。
(抱き、しめられてる…)
ふわりと、包まれた緋月の匂いは、経験はないが自分にとっての媚薬のようだった。
四肢の自由が効かなくなり、頭の奥がじんと痺れる。
そしてどこか安堵できて、眠ってしまいたくなる安らかささえ与えてくれた。
「しっかり掴まって」
促され、そろりと腰に腕を回せば、聞き違いでなかったら良い。
とくんと耳にあてた緋月の胸の音が早く鳴った。
「行きますよ」
ぎゅうと抱きしめられる。
温かい手のひらが、シカマルの耳を守るように宛がわれ、全てを守るように抱きしめられている。
その事実に、からだ中が歓喜する。
途端、
びゅう、と風が凪いだ。
ひやり、と冷たい風が頬を撫でた。
「…あ、れ…」
外気の冷たさに、目を見開くと、そこは見知らぬ森の中。
「着きましたよ?」
くすりと笑って、緋月はそっとシカマルのからだを離した。
足元は、ここもまた見知らぬ縁側の木板で。
見渡せば、暗い森の中、ぽつんと切り開かれて月明かりが照らす、おそらくは緋月の家にいた。
自分の家ほどではないが、ひとりで暮らすには大き過ぎる、年代を感じる家。
開け放された窓は不用心としか言いようがないが、家の周りを包む巨大な結界を肌に感じて開きかけた口を閉じた。
「どうぞ、初めてのお客様。そちらは寒いでしょう?」
いつの間にか点けられた灯りの中、緋月が手招いた。
「ここ、が…緋月ん家…?で、俺、が初めての来客…?」
「はい」
外套を手近なソファに落とし、緋月が静かに笑う。
「初めてってことは、親父達も来たことない…?」
「はい」
家の中は、緋月の張った結界のおかげか温かく、裸足でもなんら問題なかった。
包みこむような暖気に心が満たされていく。
「えと、さっきの、は何の術だ?」
「簡単に言えば、空間を渡る術です。ここまでの道のりを短縮するためと、あなたが道を覚えてしまわないように」
「え…」
道を覚えてしまわないように。
まだ心を開いてくれた訳ではない。
全てを見せてくれた訳ではない。
わかっていたことだったのに、初めて彼の家を知った人物になったというだけで浮かれてしまっていた自分が情けない。
俯いたシカマルに、緋月は慌てて駆け寄る。
「あ、あのっ…ちがう…んです…」
どう言って良いのかわからない、そんな様子で彷徨う視線は泣きそうに揺れていて。
「ほ、ほんとは…あなたなら、教えても…」
「…」
「ただ、この家の周りには罠を仕掛けてあるので、ひとりだと…危険で…怪我、を…」
「…」
「…すみません…」
上手く言えなくて項垂れる緋月に、自分に望みはまだあるのだと、意識が浮上した。
数歩の距離を縮めて行く。
「なあ…」
ひと付き合いが苦手なんだろう青年は、今は気配も乱れて揺れている。
こんなまだ会って間もない子供のために。
自分なら、放っておくかもしれないし、ここまで自分の時間を費やすことも、悩んでやることもしないかもしれない。
「また、来ても良いか?」
「っ…は、い…」
茶色の瞳が揺れた。
白かった頬に赤みが射して妙な色気さえ感じる。
笑みが嬉しそうだと思ってしまったのは、惚れている欲目だろうか。
「あ、あの…どうぞ」
こちらです、と、当初の目的とされていた書物のために書斎へと案内をする緋月を追う。
いつの間にか、プレゼントした鉢は、日当たりが良さそうなキッチンの窓に。
前を歩く緋月は振り向かない。
耳が紅い。
あなたの肌を紅くさせている理由が自分であったなら、
これほど嬉しいことはない。
モドル