美しいひと【4】
「あらシカマル出かけるの?」
もう陽も沈むのに。
サンダルを引っ掛けた息子に、ヨシノが問う。
「あー…まあ、ちょっと。あ、夕飯いらねーから」
視線を泳がせ、そそくさと出て行ったシカマルの背を、何かぴんときたらしいヨシノはにやりと笑った。
「まぁた緋月ちゃんとこに行く気ね」
いつの間に仲良くなったのやら。
時折やって来る、というよりは、自分の亭主とその友人達が無理矢理引っ張って来る青年と、
将棋と昼寝が友達だった息子が最近よく会っているようだ。
どちらにせよ、当の本人はいつも誘われる側で、結局のところは亭主と息子が進んで会いに行っているのだ。
それはヨシノには嬉しいことだった。
彼女自身もあの青年を気に入っていたし、一緒に料理だってする。
もっと幼い頃から知っている青年を、もうひとりの我が子のようにも思っていた。
気を許せる友人もあまりいない、色々と不幸な境遇にあっている青年が、少しでも笑える時間ができるなら。
自分は何だってするけれど。
自分や亭主が、彼に迂闊に歩み寄れない理由がある。
「…もう“あの傷”が治っていると良いんだけど…」
びゅうと冷たい風が吹く。
乱れた髪を手で押さえ、死の森の方を見つめた。
自宅を出て裏手に回ると、ポケットの中から折り畳まれた式を取り出す。
琥珀色の模様に縁取られたそれは、文字という文字は見当たらないが、自身のチャクラを込めれば、
同じ式が用意されている緋月宅へと空間移動できるように作られた便利ものだ。
いまだに死の森の入口から緋月宅までの道は教えてもらえていないが、行き来はできる。
本が読みたければお好きなときに、と、わざわざ作ってくれた式はシカマルにとっては宝物でもある。
微量のチャクラを流せば、それに反応して式がほわりと淡く光る。
一瞬、からだに圧力がかかり、ぎゅうと瞑られた目を開ければ、あっと言う間に死の森の最奥。
トンと降り立った庭先から、いらっしゃいと涼やかな声が響く。
「久しぶり」
「何言ってるんですか、一昨日来ましたよね?」
そして会いましたよね?
くすりと笑われ、
「一日半も会ってなかった」
そう言って距離を詰めれば、目の前の青年の頬に朱が走る。
恋人におくるような言葉に、緋月はどう返して良いのかわからず俯く。
(かわいいなぁ…)
まだ見上げねばならない青年との身長差。
そのうち追い越して、そのときは細い肩を抱き寄せられたらきっと幸せだと思う。
「ん…なんかいーにおい…」
くん、と家の中から漂う匂いに話の方向を変えれば、助かったとばかりに緋月が顔を上げた。
「あ…夕飯食べるかなと…思って、良かったら、」
「うん、食べる」
むしろ、最初からその気でいた。
任務のない日は、こうやって必ず食事を作って待っていてくれることを知っている。
(なんか…奥さんみてぇ)
ふ、と笑って、食事の用意に向かった緋月の背を追った。
「ごちそうさまでした」
丁寧に両手を合わせて礼を言うシカマルに、おそまつさまでしたと笑う。
「うちの母ちゃんより美味いし」
「そんなことは…」
お茶を差し出し、思慮深く視線を落とす姿も儚げで目を惹く。
「あ、そうそう」
話題を切り上げ、緋月が用意していたらしい書物をいくつか抱えてシカマルに手渡す。
「これ、前に頼まれていたものです。整理していたら出てきたので…」
「うっそ、まじ嬉しい…!」
年代物で、なかなかお目にかかれない一品ものだ。
「ほんと、すごいの持ってるよなぁ…」
「んー…一時、賃金が払えなくて物資で給金をもらっていたときの押収物なんですよ、それ」
「は?何それ」
「…綱手様が、目を離すとすぐに賭博に赴いて負けて帰っていらっしゃるので…」
任務先で押収した武器や書物、金品などの物資で支払われることが時折あるのだと言う。
本気でこの国のことが心配になってくる。
「まあ、お金なんてもらっても俺はあまり使い道ないので良いんですけど…
こうやって役に立てたなら、むしろ良かったです」
にこりと笑みを向けられたシカマルは、その笑みに跳ねた心臓の音が聞こえやしないか気が気ではない。
しかし、もっと焦燥の念にとらわれる悩みもある。
「あのさぁ…」
「はい?」
沸かした熱湯を急須に注ぎながら返事を返す緋月に、更に大きく鳴る心臓の音が聞こえるだろうか。
「緋月は彼女いる?」
「は……え?」
ぽかんと開いた口で、シカマルを茶色の瞳が凝視する。
「いや、恋人いねぇの…ってお湯!」
「えっ…あっ…あっ熱っ」
急須から溢れ出た熱湯は、テーブルの卓上を伝って緋月の足にかかったようだ。
膝から下にかけて濡れたのか、衣服がべったりと足に張り付いている。
「ちょ、大丈夫か!?」
慌てて駆け寄るシカマルは、痛みに蹲った緋月へと近寄り、傍目からはシカマルが覆い被さるような形になった。
シカマルによって顔に落ちた影に、緋月の瞳が大きく揺れた。
それはひどく不安気に、瞳孔が開く。
「…?緋月?」
何故か自分を怯えたように仰ぎ見る青年に、シカマルは不安になって手を伸ばす。
「ひっ…」
瞬時に頭を両腕で守るように蹲り、身を固めた緋月をシカマルが訝しげに見つめる。
「緋月…?」
見開いた茶色の瞳は、自分を通り越して遥か遠くの何かを凝視している。
よく見れば、頭に置かれた指先は、カタカタと震えていた。
「どうしたんだよ…?」
伸ばした指先が、緋月の震える指に触れる。
感じた体温の異常な低さに、一瞬息を呑んだ。
「ゃだ…」
「え…?」
揺れた瞳は茶色から目の覚めるような蒼へと変化して、再び茶色になり蒼になり、
点滅する様子は緋月の心情を表しているかのようだった。
「やだぁ…!」
瞳は蒼になり、ぼろぼろと溢れる涙が蒼白の頬を濡らしていく。
どこか舌足らずな幼い口調で、いやだと繰り返す。
悲哀よりも劣情をそそる姿だが、今はどうにか緋月を落ち着けることが先決だ。
「どうしたんだよ…?」
立膝をつくと、彼の目線と同じくらいになる。
「何が嫌なんだ?」
伸ばした手を怖がったから、視界から外れた肘あたりからゆっくりと手のひらを上に上に這わせていく。
「何が怖い…?」
教えてくれ。
そっと濡れた頬を手のひらで拭うと、手のひらの温度に少し落ち着いたのか、瞳の色が茶色に戻った。
戻ったというよりも、本来は茶色の瞳の方が変化したものなのだろう。
「シ…ぁ…」
舌が麻痺しているのか、上手く喋れぬ緋月の手を安心させるようにシカマルは自分の手で覆う。
泣いたせいで顔に熱が上がったのか、徐々に紅みの射す頬と唇に、不謹慎だが口づけたいなぁと思った。
代わりに、小さい子供にするように、ゆっくりした動作で包み込むように抱きしめる。
そんな緩やかな動作にさえ、強張るからだに、想像したくもない嫌な予感が頭を掠めた。
「もう…大丈夫か?」
よしよしと背をさすり、あやすように頭を撫ぜる。
腕にいる想い人からは、ほわりと優しい匂いがした。
(あれ…)
なぜだかそれはとても懐かしく、何かを思い出しそうな匂いだった。
この匂いも感じも覚えがある、が、明確には思い出せない。
もしかすると、自分と緋月は、もっと昔に出会っていたのだろうか?
緋月が落ち着いたら、今度聞いてみよう。
ややあって、小さく自分の名を呼ぶ声がした。
「もぅ…へい、き…だから…」
泣いて上がった熱とは違う、羞恥の色を滲ませた紅い頬で、気まずそうに緋月が胸を押した。
「…ほんとに?」
念を押すシカマルに、緋月はこくりと頷いた。
「なら良いけど…一体…や、いいや」
様子がおかしくなった原因は知りたかったが、これ以上何かあったら自分にも対処できるかわからない。
息を呑んだ緋月に、話さなくていい、と首を振った。
「あっそうだ!火傷…!」
ごたごたですっかり忘れていた足の火傷に、しまったと焦るが、押し上げた衣服の中から現れたのは、
うっすらと紅くなっただけの肌。
とても熱湯をかぶったとは思えぬ軽傷であった。
「あ、れ……」
「…たいしたこと、なかったみたいです、ね…」
痛くないし大丈夫です、と緋月はさっと衣服を下してしまった。
その後は、食事の後片付けをして、借りた本を深夜まで読みふけるいつもの日常…
にはならず、本を片手に考えるのは、様子のおかしかった緋月のことばかり。
本当の名も年も知らない、愛しいひと
いつかいつか、全てを知って
あなたの支えになりたいのです
モドル