美しいひと【5】







目を閉じると、肩を、からだを震わせる美しいひとを思い出す。

怯えきった双眸の奥に在るものを、



消してやりたい。









ぱたり。

はあ、とひとつ溜め息を落として、シカマルは本を閉じた。
まだ読みきってはいない。
こんなこと、普段はしない。
想いを寄せる緋月からもらった本は外れはなく、いつもならどれほど疲労していても睡眠不足でも
途中で打ち切ることなどない。

文字が頭に入ってこないのだ。
原因はわかっている。

「緋月……」

細身の肢体を小さく丸めて震える姿が瞼の裏に焼き付いている。
どこか遠くを見ていた双眸が、深い深い蒼に変化したことも。

つい先日、いつものように訪れた緋月邸にて起こったできごとが、シカマルに他の思考をさせまいとする。
あの怯えように、シカマルの中では認めたくない仮説がひとつ、あるのだが。
(あの容姿だもんな…在り得る話だし…)
幼い口調だった。
(昔、暴漢に…襲われたとか……)
まさか本人に聞く訳にもいかない。
それに聞いてどうしたいのだ、自分は。
古い傷口を開いて、再び泣かせたい訳じゃあない。
しかし、自分は彼に心底惚れているのだ。
触りたいし、心を知りたいと思うのは、自然な衝動だと思う。
折を見て、好きだと伝えたいと思っていたのに。
もし緋月が首を縦に振ってくれたとしても、その傷を治さなければ、
いや、たとえ受け入れてもらえなくとも、消してやりたいと思ったのだ。
(どうしたら…!)
くそ、と舌打ちしてベッドへとからだを沈める。

熱湯を誤ってかぶってしまった緋月に近寄った。
すると緋月はカタカタと震え出した。
「………」
どうして緋月は怯えたのだろう。
何が彼の恐怖の引き金になったのだろう。

彼に触れることで、先日のような状態になったことはない。
接触による恐怖は感じていなかったはずだ。
「あのときは…」
覆い被さるように、緋月に、近づいた。
怯える緋月に対して、シカマルは無意識に彼の視界の入らないところから指を這わせて落ち着かせようとした。

「…やっぱり、そうなんだろうな…」
押し倒されたのだろうか。
恐怖心があるということは、合意なはずもない。
誰だかわからぬ相手に、ふつふつと怒りがこみ上げてくる。

「あんた何…すんごい怖い顔して」
考え事をしていたおかげで、部屋に現れた気配に全く気付かなかった。
忍としては減点だ。
洗濯物を届けに来てくれた母に、別に、と短く答える。
「…そんな怖い顔してたか?」
「ぶっ殺す!って顔だったわよ」
どうやら緋月への気持ちは本物らしい。
は、と嘲笑を漏らした。
「そういや、母ちゃん緋月と会ってんだよな…」
息子の口から零れた名前に、戻ろうとしていたヨシノが振り返る。
「緋月ちゃん?」
「おー、いつから知ってんの」
珍しく自分から話題を振るシカマルに驚きながらも、勉強机の椅子を引っ張り出して座った。
「…そうねぇ、緋月ちゃんが5歳くらいの頃からかしら」
(そんなちっせぇ頃から…)
思った以上に早く緋月と出会っていたらしい母に、嫉妬してしまう。
(ん?5歳ってことは…)
「もしかして、緋月の表の顔も知ってんのか?」
いつになく食いついてくるシカマルが面白いらしく、ヨシノは勝ち誇ったように、にやりと口角を上げた。
「知ってるわよ」
「…名前とか」
「知ってるけど、教えなーい」
ちっと舌打つシカマルを、楽しそうにヨシノが笑う。
「暗部だからかよ」
「あら、それは知ってたの?」
なーんだ、と口を尖らせるヨシノに本日何度目かの溜め息をつく。
変化をしていて、名前も本名ではない、となればそのあたりだろうと本人に聞いてみたところ、
緋月はあっさり「はい」と答えたのだ。
「あんた、ほんとに緋月ちゃん好きねぇ」
「好きだよ」
からかうヨシノに、正面から好きだと言うシカマルを、凝視した。
「…それって、どういう“好き”なの…?」
「恋だの何だのっていう方だよ」
普段ならこんな会話などしないのだが、いかんせん今日は頭が働いていない。
なかば自棄を起こしている自覚はあった。
「………」
「…なんだよ」
黙ってシカマルを見つめるヨシノに、シカマルの方が先に折れた。
「あんたも普通の子だったんだなぁって、安心たのよ」
昔から頭が良くまわる息子は、趣味が将棋だの昼寝だの、子供らしくない思考で生きていたため、
恋なんて一生せずに生きていくのではないかと、正直思っていたのだ。
「シカマル」
「なんだよ!」
「良い子選んだじゃない」
さすが私の子、と笑うヨシノに、無性に羞恥心が湧いて、目を逸らした。
そんなシカマルの様子は気にせず、ヨシノは緋月を語り始めた。
「緋月ちゃん良い子なの。ほんとに優しい子なのよ。周りの環境はひどくてもまっすぐ生きてる…」
イノイチも同じようなことを言っていた。
少なくともヨシノは、自分よりもずっと、今までの緋月を知っている。
シカマルは、先日にあったできごとを話してみることにした。
自分の抱いている仮説と共に。
「…あのさ」




「…そ、う……」
シカマルの話が終わると、ヨシノは苦しそうに眉を寄せた。
「まだ…傷はふさがってなかったのね」
ぽつりと漏らしたヨシノの言葉に、自分の予想が外れていなかったことを知る。
腹の底から湧き上がる感情には名前がちゃんとあったはずだと、どこか客観的に思った。
そう、憎しみってやつだ。
その様子をじいと見つめていたヨシノは、重々しく口を開いた。
「ほんとは、あんたがもっと大きくなったら話してあげようと思ったんだけど」
真剣なヨシノの眼差しに、シカマルは横にしていたからだを起こし、ベッドに腰掛けた。
「ほんとの緋月ちゃんのこと」

外は少しずつ夕闇の世界になっていた。
開け放していた窓を閉め、ヨシノは音が漏れないように防音の結界を張った。
随分な周到さにシカマルは驚いたが、それほど緋月についての情報は大事ということらしい。

「九尾の話って、知ってる?」
「あー、アカデミーで習ったな。里を襲った九尾の妖を、4代目火影が実子に封印したっていう」
いきなり緋月の情報とは全く違う内容に、シカマルの眉が寄る。
「そうね、そう…。シカマルは、4代目の実子に会ったことある?」
「や、ねぇよ」
「名前は知ってる?」
「確か…」
うずまきナルト。
この国でその名を知らぬ者はいないのでは、というくらい有名だ。
昔からドべでアカデミーの成績も悪く、悪戯好きのため嫌われまくっているとか、悪い噂を山ほど聞いた。
(つか、何で今そいつの話すんだよ…)
訝し気に眉を寄せるシカマルは、ぎくりと肩を震わせた。
「まさか…」
聞いている噂と、想うひとのイメージは全く重ならないが、ヨシノははっきりと頷いた。
「そう、その子が緋月…ナルちゃんよ」
遠い記憶を辿っているのか、ヨシノはどこか遠いところを見ている。
「九尾をその身に封印されたナルちゃんは、最初は今は亡き3代目が匿って育てていたの。
けど、3代目が知らないところで、ひどい虐待はあったみたいね。九尾の力ですぐに傷が治るけれど、
いつも傷と痣だらけだったらしいって聞いたことがある」
九尾の治癒が追い付けないほどの日常の暴力があったということだ。
「3代目はナルちゃんに、生きるための力を与え、技を教え、表だっては強くあれないナルちゃんは
暗部として働くように…3代目に恩が返したかったのね」
下手に強いことが知られれば、里人達が黙ってはいない。
九尾の封印が解けたなどと喚いて、極刑、よくて幽閉になってもおかしくなかったのだと言う。
それでなくとも、里人達は日常的にナルトに憎しみをぶつけていた。
それは今でも変わっていない。
何もできない、無力な子供として見せつける必要があったのだ。
全ては、生きるための演技。
「…ナルちゃんが5歳の頃…今のあんたより小さい時にね、初めてうちに来たの」
ナルトが5歳なら、シカマルはまだ産まれて数カ月だ。
ぽつりぽつりとヨシノは語り始めた。

「日がすっかり暮れた頃に、お父さんが街の見回りしていて見つけたそうよ。
風体の悪い男が、人気のない空き地から出て来たんだけど、服に血がべったりついていたから話を聞いたそうなの。
男はどこにも怪我をしていなかったし、その割にはひどい血の匂いがしてたから不審に思って周辺を調べたの。
血の匂いを辿っていくと、血溜まりの中にちっちゃなからだが横たわってたって。
どこもかしこも痣だらけ、頭を殴られ意識はなく、血の気の引いた青白い顔が、頭に受けた裂傷から流れ出た血に
浸っていたって。
服はもう着られるような状態じゃなくて、お父さん自分の着てた外套でくるんですぐに病院に連れてったんだけど、
九尾を宿した危険因子を入れる訳にはいかないって断られたの」
で、うちに来た。
ヨシノは悲しげに視線を落とした。
シカマルは黙ってはいるが、握りしめた指は怒りで震えていた。

薬剤にかけては長けている奈良家ではあるが、怪我の治療となれば専門外だ。
最低限の医療キットで、なんとか手当てしたのだと言う。

目を覚ましたナルトは、覗き込むように様子を見たシカクにひどく怯えたらしい。
知らない大人だから、という言葉では済まないほどの動揺と畏怖の表情に、奈良夫婦は事の真相を見た。

それからは何かとナルトのことを気遣って、関わるようにしてきたらしい。

「緋づ…ナルを襲った奴は」
今もまだのうのうと生きているのなら…。
黒い瞳の奥で、どんどん計画が立てられていく。
シカマルの思考を知ってか知らずか、ヨシノは笑った。
「さあ、ナルちゃんが襲われてから姿が見えないらしいけど?」
目だけが笑っていない笑顔は、シカマルに語る。
シカマルは、幾通りも考えた暗殺計画を頭から消去した。
既にナルトを想う人間が手を下していたらしい。

「これが私の知っているナルちゃんの情報。知ってしまって後悔したと言うのなら記憶を消去してあげるわよ」
ひやりとした黒い瞳が、シカマルを射抜く。
「するかよ…さんきゅ」
シカマルの返事に、ヨシノは口元を緩めた。
「あんたは物に執着しない分、気に入ると長いからね」
ヨシノの張った結界がぱんと弾けた。
辺りはすっかり暗くなり、星が輝いていた。
ポケットから琥珀色の模様が描かれた式を取り出し、窓際に向かう。

「ちょっと行って来る」

どこへ、と言わずともわかる。
ヨシノはひとつ笑って送り出した。














モドル