望むもの【1】
茜色の空に、烏が数羽飛んでいた
それは何かを暗示しているようでもあり
ただ夜が来る前触れを示しているようでもあった
「忍の皆様、御苦労様でございました」
恭しく頭を下げたのは、今回の合同任務であった大名の娘の護衛を依頼した婦人であった。
娘の母である婦人は、別荘のある木の葉のはずれから、自宅までの護衛を頼んだのだ。
その任務には、7班と10班があたり、引率者としてカカシと中忍になったシカマルが選ばれた。
中忍になったばかりのシカマルが主にリーダーを務め、カカシはサポートと言ったところだ。
半日かけての合同任務は、特に問題もなく、滞りなく終了した。
表向きでは。
ナルトは密かに息をついて、任務終了にすっかり気を抜いていた周りの仲間とは違い、
数里先まで気配を巡らし、おかしな気配がないか探った。
実は途中、大名親子を狙う刺客がいたのだが、誰にも気づかれない内にナルトが片付けた。
刺客の数と力量を考えると、このメンバーでは護衛も兼ねての刺客への相手は、双方が無事にはいかないだろうとの判断で。
綱手には片付けた際に、報告用の式を飛ばしてある。
とりあえずは、妙な気配は見当たらず、しかししばらくは気は抜かないでおこうと、もうひとつ溜め息。
ここ最近、こういう用心深さを持たない忍が増えているなぁ、と。
イルカも同じようなことを漏らしていたから、もしかすると近いうちに暗部筆頭に
暗部総隊長イルカの地獄の特訓が始まるかもしれないと苦笑する。
その時、各自持ち場にいたメンバーに、シカマルからの招集がかかった。
「皆、お疲れ。報告書は俺から出しておくし、ここで解散するぞー」
「あ、お待ちください」
シカマルの解散の声を割って入ったのは、ここまで護衛していた娘。
「皆様お疲れでしょう?お茶をご用意いたしましたので、良かったらぜひ」
照れたようにシカマルを見つめる姿に、皆がにやにやと微笑ましく見守る中、
心中穏やかではない者が一名。
金髪は少し項垂れて、あまり見ないように視線をそっと外した。
「や、お構いなく」
きっぱりと断るシカマルに、
「でも、もう用意してしまいましたから…」
どうぞ、と腕をシカマルのそれに絡ませる姿に、ナルトはつい見てしまった己を悔いた。
ずっと、アカデミーに行く前から、好きだった。
それからずっとずっと好きで好きで。
(でも…)
こんな気持ち持っていたって、
(シカマルには迷惑ですよね…)
男で、それも里の嫌われ者の狐憑きなど。
ただでさえ面倒ごとが嫌いな彼にとって、自分を好いてくれる要素などひとつもない。
中忍になって背も伸び、表情にも精悍さが備わり、人を統括する力もある。
動作のひとつひとつをつい目が追ってしまう自分をどうすることもできない。
頬を染めて腕を引っ張る大名の娘が、心底うらやましい。
何の躊躇いもなく、気兼ねもなく。
(いいなぁ…)
そう思う、心の底から。
皆がぞろぞろと、屋敷内へ入って行く。
しかしナルトは動かない。
こういう場合の扱いなど、大体同じなのだから。
「俺はいいや。帰るってばよ」
「は?待てよ、ナルト」
「シカマル様」
背を向けたナルトを止めたのはシカマルで、シカマルを止めたのは大名の娘。
「ご用事がおありなら、残念ですけど仕方ありませんわ」
ねぇ?とにっこり微笑む娘の瞳に、明らかな嘲りの色を認め、内心溜め息をつく。
そんな表情など出してはやらないが、じくりと胸が痛む。
(もう、慣れたと思っていたのに…)
まだまだ弱いな、と目を伏せる。
「それなら俺も帰る。皆は甘えて休んで行けよ」
他のメンバーに声をかけ、シカマルは娘の腕を払う。
その行動に焦ったのは娘だ。
「そんな…そう仰らずに休んで行ってくださいませ」
せっかくご用意いたしましたのに、と縋る娘にシカマルは眉間を寄せた。
「何で俺の時は引きとめるんだよ」
ナルトの時はしなかったくせに、と漆黒の双眸が冷ややかに細められる。
険呑な雰囲気に耐えかねて、ナルトは肩をすくめた。
「えっと、俺、やっぱり休んで行こっかな」
にこりと、唇を引きあげて。
作った笑顔に、シカマルは眉を顰めたが、娘は引きとめる材料ができて大喜びだ。
「さあ、どうぞこちらへ」
現金な様子でシカマルの腕を引っ張り、奥へと誘う。
その様子に再度溜め息をついて、ナルトは最後尾でついて行った。
(ああ…幸せが逃げて行く…)
「って、元々そんなに持ってないですけどね…」
ぽそりと漏らした独り言に、シカマルが振り向く。
「何か言ったか?」
「何でもないってばよー…」
なんだか疲れるなぁと、溜め息つく力さえもうない。
近頃、よく思う。
このまま溶けるように消えてしまいたいと。
いまだに残る九尾への憎悪、この先自分はきっとこのままなのだろうな、と思うと。
そろそろ二足草鞋をやめても良いかもしれない。
潮時なのではないかと。
ひっそりと姿を消して、暗部一本で生きていっても。
それがたとえ、かけがえない仲間達と別れることになるとしても。
愛するひとと、別れると、しても。
通された部屋は大広間で、大名夫人と娘を上座に、彼女らの取り巻きらしき者達が談笑していた。
用意された座席には既にシカマルとナルト以外のメンバー達が、下女達に給仕を受けている。
シカマルは大名夫人と娘の前の席、カカシの隣へと案内され、ナルトは仲間達の傍に腰を下ろす。
だいぶ離されたシカマルとの距離に、寂しさを感じながら、
とにかくさっさと終われば良いと思った。
今夜だって暗部の任務が待っているのだから。
それだけが、自分の存在意義。
そう思うたびに、血が冷えるような感覚に、生きた心地などせず悲しくなる。
お茶と菓子が運ばれ、夫人からの労いの言葉と共に、さながらお茶会のようなものが開かれた。
最後に座ったナルトにも、下女のひとりが茶を注ぎに腰を下ろし、ひとつ会釈して下がって行った。
暖められた器を両手でそっと持ち上げて口元に運び、
「…っ…」
落としそうになった。
ひとくち喉に流し入れ、一瞬意識を失いそうになるのを、反射的に抑えた。
焼けるような痛みが流した液体が通った器官から広がっていく。
叫びそうになった声を抑え、震える指先からどうにか茶器を床に置く。
懐かしい感覚に、おかしな気分になる。
思い出す。
昔受けた、食事係からの憎悪を。
内臓を溶かし、九尾が治癒を開始する。
焼けた器官から溢れた血が喉から逆流したが、何でもないようにこくりと飲み込んだ。
今、痛いと叫んで毒が入っていたのだと訴えたとしたら。
きっと仲間達は大丈夫かと心配してくれるだろう。
犯人は誰なのだと追求してくれるだろう。
しかしそんなことをしてどうなるのだと、思ってしまう。
九尾への憎悪が止まる訳でも、自分の未来がこの一件で良くなるとも思えない。
どうせ変えられない未来なら、気付かれないで済むのなら、もうそれで良いと。
諦めるようになっていた。
爛れた口内に眉ひとつ動かさず、九尾の治癒が完了するのを待つ。
談笑に夢中の仲間達は、一番後ろに座ったナルトの様子がおかしいことに気付くこともない。
いつもは騒がしいキャラクターでも、食べている時くらい騒がなくても違和感などないはず。
誰も気づくはずなど、ない。
はず、だった。
「おい」
ふいにかけられた声に、思わず肩を揺らしてしまった。
顔を上げると、心配そうに見つめる漆黒に驚く。
この距離まで近づかれて気付けないほど、治癒に集中してしまったらしい。
「大丈夫か?顔色、すっげー悪いぞ」
額に滲んだ汗をそっと指で拭い、どうした?と腰をかがめ視線を合わすシカマルに、
大丈夫だと言いたかったが、喉が思ったよりもやられていたようで声が出ない。
声を出そうとして開いて見えた口内の紅に、シカマルの目が見開く。
「おい!なんだそれ…!」
「っ…あ゛…」
しまった、と思ったときには既に遅く、顎を掴まれ無理矢理に口を開かされた。
「これ、どうしたんだよ…!」
真っ赤に染まった口内に、シカマルの眼光が鋭くなった。
周りでお茶を楽しんでいた仲間達も、シカマルの声に異変に気付き、こちらへどうしたのかと寄って来る。
(最悪です…)
顔には出さなかったつもりでいたのに、まだまだ甘かったらしい。
シカマルは辺りを見回し、ナルトの飲みかけの茶器を見つけ拾い上げると匂いを確かめ、口に運ぼうとしたので
ナルトは慌ててその茶器を手で払った。
パリンと軽い音を立てて割れた茶器に、その場にいた皆がシカマルとナルトに意識を向ける。
シカマルは流れた液体を僅かだけ指先につけてこすると、ぬるりと指先の表面が溶けたことを確認し、
「何だよ、これ…!」
怒りで全身が震えた。
もしかすると仲間全員が同じ物を飲まされたかと危惧するが、既に口をつけていたところを見ると、
どうやらナルトのみを狙ったようで。
その真意がわかるからこそ、余計に腹が立って仕方なかった。
拳を握り震わせるシカマルに、ナルトは唇だけで、大丈夫だと言った。
もうあと数分もしたら、九尾の治癒で完治する。
「大丈夫じゃねーだろ…!」
ぎ、と大名夫人と娘の方を睨み、
「仲間の茶の中に毒が。どういうことでしょうか」
詰め寄ったシカマルに、夫人はふんと鼻を鳴らした。
「あなたこそ、自分が何を言っているのか判っているの?」
「は…?」
さもおかしいと、扇子を口元に当てて高らかに笑う。
「そんな狐憑きの言うことを信じるなんて」
取り巻き達が、その言葉に賛同するように頷き合う。
「そもそも、わたくし達の仕業だという証拠はあるの?」
ふ、と目が弓なりにしなる。
「誰からも愛されない、憎まれてばかりの狐が、あなた達からの同情を得たくての自作自演だとは思わない?」
ずくりと、胸の痛みが大きくなった。
毒のせいなのか、周りの音がまるでスクリーンの中のできごとのようで、
膜が張ったように遠くに聞こえる。
可哀想な、狐の子供の話を、している。
は、と漏れた嘲笑は、夫人への抗議に夢中の仲間達は気付かない。
「名家旧家の子供達であるあなた方が、まさか狐の言うことなんて、信じないわよねぇ?」
勿論違うわよねぇ?と笑う夫人に、娘も笑う。
「まさか。ねぇ、シカマル様」
ナルトの肩を抱くシカマルの指が、ぴくりと動いた。
「皆様も、孤独で可哀想な狐を同情で仲間にしていらっしゃるだけなのでしょう?」
無邪気に笑う娘に、いっそ声を立てて笑おうか。
もう悲しいなんて感情さえ湧かない。
夫人の周りを取り巻く者達は、里では有名な権力者ばかりだ。
いくら旧家の子供とは言え、これ以上ナルトを庇えば立場が悪くだろう。
「も…いってば、よ…」
ようやく声が出たナルトを、大丈夫かと仲間達が駆け寄る。
「俺、が…自分で、やったんだってば…」
ふ、と苦く笑えば、
「違うだろ!!」
本気で怒ってくれるシカマルが、仲間が、嬉しくて。
でも、情けなくって。
自分はいつまで、彼らの重荷になるのだろうかと。
暗い感情だけが溢れてきてしまって、なんだか泣きそうだと思った。
もういいやって。
思って、しまった。
肩を抱いていてくれたシカマルの腕をすり抜けて、
「もう、へいきだから」
笑った。
表向きでない、静かな笑みで。
自分が不要とされる、
安堵や幸せの見えない、
こんな世界。
もう、いらないやって。
するりと仲間達の間を抜けて、窓枠に足をかけた。
「じゃあね」
さよなら
唇だけでそう言った。
誰も見ていないかも、しれなかったけれど。
それでもいいや。
空には夜の帳
儚く淡く昇る月が
美しかった
モドル